マテンゴ語の記述研究(バンツー系,タンザニア)-動詞構造を中心に-
米田 信子
1.本論文の目的
本論文の目的は,東アフリカ,タンザニアで話されているマテンゴ語の総括的な記述をすることである。マテンゴ語はアフリカ大陸赤道以南で広く話されているバンツー諸語のひとつで,タンザニア西南端マラウィ湖東岸のンビンガ県で話されている。話者数は約15万人である。
マテンゴ語の音韻や文法についての体系的な記述研究は,これまで全く発表されていない。民話や語彙集などが今世紀初頭に出版されているが,音韻的理解がなされていないために,いずれにも混乱が見られる。本論文は,マテンゴ語の全体像を明らかにすることを目指し,歴史的背景や社会言語学的背景も含めて,できるだけ多くの現象について触れながら,網羅的な記述を行なう。さらに,資料としてマテンゴ語の民話と約2300項目の語彙集を巻末に付す。
本稿で用いるマテンゴ語のデータは,すべて筆者自身がフィールドワークで収集したものである。フィールドワークは,1996年8月から1997年2月,1997年7月から12月,1999年1月から2月までの合計約1年間にわたり,ンビンガ県リテンボ区で行なった。この地域は,歴史的にマテンゴ人の拠点となる地域であると言われている。主要インフォーマントは,1932年リテンボ区生まれのマテンゴ人男性である。
この記述研究は,一言語の研究にとどまらず,これまで少なかったタンザニア南部の言語資料として,バンツー諸語の比較研究,あるいは言語学の諸理論の研究に貢献するものであると考える。
2.本論文の内容
本論文の中心テーマはマテンゴ語の文法記述である。しかしながら,文法的にも語彙的にもスワヒリ語から多大な影響を受けているマテンゴ語の現状を示すことは,この言語の記述として重要であると思われる。そこで本篇に入る前に,マテンゴ語の社会言語学的状況を解明し,そのような状況を導き出したタンザニアの言語政策についての考察を行なった。「国家語」の選択と普及が困難であるとされてきた多言語社会の中にあって,スワヒリ語を普及させることができたタンザニアであるが,同時に,民族語の衰退という新たな課題も生れつつある現状である。
本篇の「マテンゴ語の文法」は,3~6章の4つの章からなる。3章では音韻,4章では名詞と連体修飾語,5章では動詞形態論,6章では統語論について,それぞれ記した。極めて膠着性が高いマテンゴ語の性質上,中心は形態論である。特に,マテンゴ語文法の要ともいえる動詞構造に焦点をあてた。もうひとつの焦点は「声調」である。他のバンツー諸語と同様,声調のシステムを理解することは,マテンゴ語の文法解明に不可欠である。
以下が本篇「マテンゴ語の文法」の各章の要約である。
<第3章>音韻
マテンゴ語の母音と子音は以下のとおりである。
母音:短母音/i,e,ε,a,ɔ,o,u/
長母音/iː,eː,εː,aː,ɔː,oː,uː/
子音:閉鎖音/p,b,t,k,g/,摩擦音/s,h/,破擦音/ʤ/
鼻音/m,n,ɲ,ŋ/,接近音/l/,半母音/w,j/
母音は,舌の高さによって母音調和を起こす。音節は開音節で,V,N,(N)C(S)Vと構成される。Nは常に後続する子音と同調音点である。この言語では音節とは別に「モーラ」という単位を考える必要がある。長母音で現われる音節は2モーラ,それ以外の音節は1モーラである。
マテンゴ語の声調にはHとLの対立が聞かれる。しかし,これは声調素としてHとLがあるというよりは,Hのみが指定されていて,指定のないものがすべてLで現われていると考えられる。つまり,[+H]と[-H]の対立である。声調はモーラ単位で配列される。
<第4章>名詞と連体修飾語についての形態論的記述
名詞は19の名詞クラスに分れている。この名詞クラスは,マテンゴ語全体の文法呼応システムの基盤となるものである。各クラスには独自の名詞クラス接頭辞があり,その接頭辞により,名詞が属しているクラスが示される。名詞の構造は「名詞クラス接頭辞-名詞語幹」である。
名詞語幹の基底声調は5つのグループに分けられる。名詞クラス接頭辞の基底声調,語幹の声調グループ,表面化するにあたって適用される規則は以下のようにまとめられる。
名詞クラス接頭辞の基底声調
5クラスと場所クラスの接頭辞:L
それ以外のクラスの接頭辞:H
各声調クラスの名詞語幹の基底声調
声調グループI:すべてL
声調グループII:語幹の直前がH(語幹自体はすべてL)
声調グループIII:語幹頭がH
声調グループIV:語幹頭の右隣がH
声調グループV:語幹末がH
規則
規則1:Hが重なった場合,前のHは消える
規則2:末尾のHは左隣にずれて現われる
規則3:孤立形で語中にHが全くない場合には,語頭から2番目のモーラがHになる。ただし,3音節名詞の場合には語頭がHになる
名詞と同じく単独で主語や目的語として立つことができるものに独立代名詞がある。独立代名詞は,指示する名詞が属している名詞クラスに呼応した代名詞接頭辞をとり,「代名詞接頭辞-語幹」と構成される。代名詞接頭辞には声調の指定がない。従って,規則によって表層声調が指定されなければ,これらはすべてLで現われる。
連体修飾語には,形容詞,所有形容詞,数量形容詞,指示形容詞,属辞などがある。これらは,被修飾語名詞が属する名詞クラスに呼応した名詞クラス接頭辞あるいは代名詞接頭辞をとる。名詞クラス接頭辞をとる形容詞の語幹は,名詞語幹と同じ5つの声調グループに分けられる。その他の修飾語はすべて代名詞接頭辞をとる。それらの修飾語には声調グループはない。
<第5章>動詞についての形態論的記述
動詞は次のように構成される。
主語辞---時制辞---目的語辞---語根---拡大辞---派生辞---前語尾辞---語尾
ʤu---á---gu---but---uk---il---ø---a
<3sg>---<未来>---<2sg>---「走る」---<適用>---<基本>
「彼は君を追いかける(確認未来形)」
上記の構成要素は役割によって3つに分けられる。
①文法呼応要素---主語辞,目的語辞
②動詞の意味を決定する要素---語根,拡大辞,派生辞
③活用要素---時制辞,前語尾辞,語尾
①の文法呼応を示す主語辞(S辞)と目的語辞(O辞)は,それぞれ,主語名詞と目的語名詞が属している名詞クラスに呼応して動詞に付加される接辞である。これらは文法呼応を示すだけでなく,主語名詞,目的語名詞が提示されていない場合には,代名詞としての機能をする。②の意味を決定する要素は,語根,拡大辞,派生辞である。これらのうち,語根と拡大辞は動詞の基本的意味を表わす。基本的意味を表わすという機能の点からは,これらは分割できない要素である。派生辞はそれ自体が独自の意味をもち,接辞されることによって,その意味を基本的意味に付与する。③の活用要素は,動詞のテンス・アスペクト・ムードを表わす。以下に直説法の活用形を時制辞別にあげる。
過去時制辞-a-:完了過去形,単純過去形
未来時制辞-í-:単純未来形,確認未来形
移動時制辞-áka-:移動未来形,確認移動未来形
時制辞なし:当日過去形,完了現在形,単純現在形
動詞語根は声調の対立を失っており,すべてHの基底声調を有する。語根以外で固有の声調をもつ動詞構成要素は,時制辞と語尾である。それ以外は声調の指定がない。動詞の声調は,各モーラに配分され,そこに以下のような規則が適用されて表層化する。
①語尾にHがない場合は語根のHが右隣のモーラに拡張する。
②時制辞の右隣の要素は時制辞と逆の声調で現われる。
③Hが3つ現われると,中央に位置するHは消える。
④末尾のHは左隣のモーラにずれて現われる。ただし,ずれることで元々あったHと連続してしまう場合は,Hは左隣にずれることなくキャンセルされる。
⑤語中にHが全くない場合には前から2つめのモーラがHになる。
<第6章>文の構造と種類
マテンゴ語の基本的な語順は,「主語+動詞+目的語」である。主語名詞,目的語名詞を修飾する語は,常に,被修飾語の後ろに位置する。
複文は,構成している節の相互関係から「主従複文」と「並列複文」に分けられる。活用形の中には主従複文でしか用いられないものが僅かにあるが,それ以外は単文で用いられるものと同じである。主節と従属節に構造の違いはない。
3.今後の展望
本論文は「記述研究」という独立した研究であると同時に,別の研究に展開させていくための基盤でもある。その具体的な方向として,特に,①個別テーマの研究,②周辺言語との比較,を考えている。
本論文ではより多くの現象について記述することを目指したため,個別テーマを深く追求することができなかったところもある。様々な現象について記述したが,それらひとつひとつが,独立したテーマとして追求されるべきものである。
周辺言語との比較研究も今後の課題のひとつである。本論文執筆のためのフィールドワークでは周辺言語の調査はほとんどできていないが,とりわけ,歴史的に見てマテンゴ語と別の言語として確立してから150年ほどしか経っていないと考えられているンデンデウレ語の調査は必須であると考える。