日本語と韓国語の談話における文末の構造
金珍娥(キム・ジナ)
本研究は,日本語と韓国語の<話されたことば>の談話を成す<文>のあり方,その存在様式を描こうとするものである.とりわけ文の最も核心的な部分となる,文末に注目し,文末の構造体を照らし出すことで,談話の中における文はどのような姿で存在しているのか,実際に動いている談話の中にあって,1つ1つの文はどのように統合され,談話の中でどのように働いているのかという,談話をなす文のあり方を描くことを目的とする.日本語と韓国語の文末の構造体を調査するために,異なり人数160名,計80組のソウル方言話者,東京方言話者の談話を収集し,談話データとした.
第1章では,本研究で用いる最も基本となる術語の概念付けと,本研究の問題意識の底流を成す<談話分析>という研究分野が生まれるまでの,ソシュールからオースティンなどを経た言語学の流れを概観しながら,本研究の問題意識との関わりを確認した.
言語の実現形態としての<話されたことば>,<書かれたことば>,そして文体としての<話しことば>と<書きことば>を区別し,<話されたことば>の実現単位を<談話>と呼び,<書かれたことば>の実現単位を<テクスト>と呼んで区別した.こうした諸概念は,<談話分析>という研究の,場合によっては根幹を揺るがしうる,極めて重要な作業である.既存の研究は<話されたことば>を論じようとして,しばしば<話しことば>を論じることで終わっていたのである.
第2章では談話分析の根幹になる談話データについて述べた.文字化の方法,日本語と韓国語の表記の問題,注釈の問題など<話されたことば>の特徴を可能な限り精緻に表わすための方法を考察した.金珍娥(2004b)で提起し,本研究でも展開した<複線的文字化システム>はその方法的な柱の1つを成す.こうした文字化の方法や表記についての考察と試みは,<話されたことば>の最も根本的な姿を,文字に写すことで,いかにリアルに描き出せるのかという問いへの接近でもある.
日本語と韓国語の文末の構造体を調査するための,異なり人数160名,計80組のソウル方言話者,東京方言話者の談話データである.それぞれの話者がただ1度ずつしか参加していないこの160名の談話データは,<初対面同士の会話>と<友人同士の会話>の場面別に分け,20代の男女,30代の男女,40代の男女の会話のごとく組み合わせる.幅を持った世代と性別による言語使用,親疎関係による言語使用の考察を可能にする構成である.
精密に条件付けられ構築された,こうした本研究の構造的な談話データは,日本語や韓国語についての既存の国家的な機関や大学など研究機関で試みられた<話されたことば>のコーパスに,量的にも質的にも匹敵する談話データである.
第3章では談話分析を遂行する上での,不可欠の理論的前提となる,<談話の単位>の問題を考察した.
談話を構成する最も基本となる<文>(sentence),<発話単位>(utterance unit),そして<turn>を談話単位として設定した.しかし,既存の研究のturnの定義は曖昧で,あいづち発話などはturnや文として認めないという流れが,研究史上は支配的であった.本研究では<turn>は<一人の話者が,前後の沈黙や相手の発話により発話を止めるまでの発話の遂行>,すなわちturnを<発話の持続的な遂行>として定義し,物理的に発話を遂行しているかどうかという点でturnを見据えることによって,いわゆるあいづち発話も十全たるturnを成すのであり,十全たる文でもありうることを明確にしようと試みた.こうすることによって本研究では,談話を構成するすべての発話を残らず談話の中に位置づけることを可能にした.
談話のこうした諸単位を明確に区別しつつ,それらを理論的な切り口として,とりわけ<文>という単位を中心に分析を進めた.
第4章では,前章で文を取り巻く理論的前提を確認したのに続いて,今度は具体的に文の中身を考察する理論的前提へと分け入ってゆく.ここでは,本研究の主たる目的である<話されたことば>の,談話を成す文の文末の構造体のあり方を,具体的に描くための基礎作りを述べている.
文末の構造体は,まず当該の<文が述語で統合されているかどうか>という,決定的な1点から見るということが提起される.これは文を形態論,統辞論的な観点から照らすという,文法的な同定の作業である.そして文が述語で統合されている文を<述語文>,述語で統合されていない文を<非述語文>と定める.
次に,文末の構造体を,形態素分析と併せて品詞論的な観点から論じることを提起する.そこでは,日本語と韓国語を形態論的に対照するための,理論的な整理を行った.日本語と韓国語の品詞分類を,それぞれいわゆる学校文法に基礎を置きつつも,それらで問題となる言語事実の扱いを定めてゆく.
第5章からは,本稿で構築した160名の話者の談話データから得られた結果を述べる.第5章では,日本語と韓国語の談話データ全体における<文の総数>及び,<述語文>と<非述語文>の総合的な傾向を調査した.とりわけ<非述語文>に焦点を当て,述語で統合されていない<非述語文>の出現様相を照射した.
両言語における談話データは,同様の状況や同じ時間内での会話であるのにもかかわらず,そこに現われる<文>の数,即ち<文の総数>は,日本語が9,072文,韓国語が7,105文で,約2,000文という違いが現れている.こうした総文数の差は,日本語と韓国語の会話スタイルの決定的な違いの証明であると言わざるをえない.こうした違いは話のスピードなど,いくつかの原因が考えられるが,金珍娥(2003)で報告している<turnの存在様式>から説明ができる.すなわち,制限された同様の時間内に,独立した文が続いている韓国語に比べ,日本語は相手のturnに重ねている発話が多いゆえに,同じ時間でもより多くの文が出現するのである.こうした観察は,turnの明確な規定,金珍娥(2003)のturn-exchange論という理論的な枠組みの構築,そして<複線的文字化システム>という方法論的な実践という,本研究で提起したことがらが可能にしてくれているものでもある.
談話データの全体に関して判明した最も重要な,いま1つの特徴は,両言語共に文全体に対する<非述語文>の使用率が,<述語文>の使用率より高く,談話全体の<非述語文>と<述語文>は約6:4程度で,<非述語文>が半分以上を占めているという点である.
この事実は言語研究にとっては極めて重要である.<話されたことば>にあっては,日本語や韓国語は,半分以上の文は少なくとも<述語>,文の核たる<述語>で終わらないのである.<非述語文>の厳然たる存在というこうした事実は,文法研究の前提そのものをいま一度問い返してみることを,強く迫るものでもある.
それでは<非述語文>は,いったいどのような終わり方をしているのであろうか.品詞論から見た<非述語文>の文末は,<間投詞系><名詞系><副詞系><接続詞系><連体詞系><用言系><助詞系>に類型化しうる.
日本語,韓国語共に,<間投詞系>で終わる<非述語文>の出現率が,<非述語文>全体の70%前後と最も高く,その次を<名詞系>で終わる<非述語文>が20%前後の比率を占めている.また,文末の現れる<間投詞系>は,話者が自らの発話にあいづちを打つともいうべき<あいづちの再帰用法>,間投詞を文末に付すことによって,文全体を丁寧化する<間投詞の丁寧化用法>,文意を和らげ,聞き手に対して直接的な表現をいわば間接化する<間投詞の緩衝機能>といった,間投詞の注目すべき3つの機能を提起することができた.文法論,談話研究を問わず,これまであまり議論されてこなかった機能である.
また,<非述語文>にあっては,<助詞>類で終る文が最もたくさん現れている.<助詞>類が,文末に現れることを主とした働きであるとは,事実上一般には見ていないわけだが,そうした考え方自体も再考されてよいことを示唆しているのである.
第6章では,続いて<述語文>の文末の構造体を描く.<述語文>の文末がどのような構造で現れるのかを,類型化し述べた.
<述語文>は次の4つの型に分けうる:
①用言単独,もしくは用言と付属語が結合した総合的な型で終止する<述語文>
(例:卒業しました)
②用言の分析的な型で終止する<述語文>
(例:見たことないですか)
③用言と付属語が結合した分離可能型で終止する<述語文>
(例:かかるでしょう.(かかる+でしょう))
④用言に付属語が複数結合した付属語複合型で終止する<述語文>
(例:個人情報が共有されちゃってるかなっていうような感じですね.)
とりわけ④の<付属語複数結合型>の<述語文>は,次から次へと驚くほど付属語がくっついて現れている.その間には「感じ」や「思う」,「する」といった実詞も入るが,それら実詞も付属語の役割を果たし,さらには付属語の機能をさらに際立つものにする役割を果たしているのである.そして,1つの用言にくっついて次から次へ現れる<付属語複数結合型>こそ,膠着語としての特徴を遺憾なく示しているものである.
<述語文>において,韓国語は<分析的な形>による型が特徴的であり,日本語においては<付属語複数結合型>が特徴的であるといえる.
第7章では,<述語文>と<非述語文>の境界線上にあるような言語現象を解析した.分類それ自体を自己目的化することなく,むしろリアルな言語事実へ接近するための作業である.述語らしきものがありながら,<非述語文>のように働くというメカニズムに注目し,<非述語化のデバイス>と呼ばれる要素が提起される.この章は,いわば<述語文>と<非述語文>のあいだを見据える章である.
とりわけ「とか」,「って」,「なんか」,「なんて」と共に,「ていう」,「みたいな」など,<述語文>を<非述語文>にするこうした要素を<非述語化のデバイス>と名づけた.
これらは,文末について目的意識的に,<未だ終止にあらず>といった気持ちを匂わす文へと転化せしめるものである.文の最後に来ていた述語が,その統合性を失ってしまうという,あたかも<非述語文>であるかのような性格を付与するのである.形態論的,統辞論的には<述語文>が<非述語文>へと変容するメカニズムを見せてくれるものである.さらに,「ていう」や「みたいな」のように,後ろに体言を要求する連体形で文を結ぶことで,逆に未だ文は終っていないということを示すし,端的に発話が終る強い印象を避け,文を和らげるストラテジーを果たしている.連体形はそもそも連体修飾語,つまり文の成分としては修飾語であって,どうしても終止形のような統合性と終結性を併せ持ってはいない.そうした統合性と終結性の欠如と被修飾語の要求が<述語文>を<非述語文>化する仕組みを作り上げるのである.
一方,韓国語においては「ていう」,「みたいな」ほどに定着している<非述語化のデバイス>は存在しない.しかし,用言の連体形で文を終える文は,日本語より多様な形,すなわち,韓国語の用言のカテゴリーである,動詞,形容詞,存在詞,指定詞といったすべての用言の種類において連体形で終る文が現れている.用言の連体形で終るこうした文は,修飾語の性質を持つものであって,述語の統合性が弱化されているものである.本研究では<連体終止文>と呼び,<非述語文>として捉える.
そして,韓国語においても,用言の連体形で終わる様々な文の実現は,文を「端的に言い終えてはいない」というような表わしかたとして,ソフトな言語表現のストラテジーともなっているのである.談話の中でのみ現れるこうした文の姿は,今までの文法では少なくとも正面からは取り上げられたことのない言語事実でもある.
また,日本語には,自立語を伴わず,「かも」,「じゃない」,「です」,「ませんね」のように終助詞や助動詞などの付属語のみで成立する文と,「たりするんですけど」,「かと思いました」,「もちょっとだけ行きました」のように,助動詞や終助詞,副助詞などの付属語で始まっている文が,日本語の談話にはしばしば現れているのである.
自立語の「詞」がなくても,助動詞,終助詞,接続助詞などの付属語の「辞」は自立的な要素としても成り立っているのである.これらは相当に自立性が強いと見ることができ,学校文法の「助動詞」といった規定を覆すに足るものを秘めている.
第8章は<緩衝表現>(buffering expression)と本研究が名づける表現について論じた.本研究では<一旦終止した文に実質的な意味を持たず,くっついていわば文の緩衝材としての働きをする>種類の表現を<緩衝表現>と呼んだ.「とか」,「ていう」,「みたいな」など,<緩衝表現>に用いられるそれぞれのitemを,<緩衝体>(buffer)と呼ぶ.緩衝体は主として自立語の語彙的な意味を生かした形で構成される<語彙的緩衝体>と,助詞など文法的な機能を生かした構成の<文法的緩衝体>,そしてそれらのいわば中間的なものがある.
「とか」,「ていう」,「みたいな」のような1つや2つの要素で構成される<緩衝体>のみならず,「個人情報が共有されちゃってるかなっていうような感じですね.」,「良かったかなとか思ったりしてんだけど.」のように,複数の<緩衝体>が重なった<複合緩衝体>構造が,とりわけ日本語の談話では頻繁に出現する.
日本語と韓国語のそれぞれについて実例を挙げながら,<緩衝表現>を類型化した.
韓国語は「해 가지고」,「한 것 같다」,「하는 게 있다 」,「하고 하다」のように<分析的な形の緩衝体>と,「한다 그러다」という引用動詞,「그러다」という動詞を用いた<語彙的緩衝体>,「하더라」という<文法的緩衝体>などが多く用いられている.
様々な形について無秩序に羅列されているように見える日本語と韓国語のこうした<緩衝表現>は,実は<語彙的な緩衝体>,<文法的な緩衝体>,そしてあるいは<総合的な緩衝体>といった,厳然たる形式を持っている.そしてそれらの形式が自由に,豊富に現れ,形を造り上げてゆくというシステムこそ,話されたことばの顕著な特徴なのである.このような<緩衝表現>はその出現頻度の点から見ても,談話においては極めて重要な役割を果たしているものである.
第9章では全体を要約し,総括した.
本研究は談話を成す文の文末の構造を解析し,そのあり方を照らすことで,<話されたことば>の文の姿を描こうとした.それはすなわち<書かれたことば>との違いを絶えず念頭に置きながら,<話されたことば>とはいかなるものか,ということを見据える作業でもあった.また,研究を支える,理論的,方法論的な問題も扱ってきた.術語の徹底した概念規定と談話単位の区別,文字化のシステムの構築などがそうである.
そこから得られた<述語文>と<非述語文>の分布や類型,<非述語化のデバイス>,<連体終止形の非述語化>,<付属語からなる文の存在>そして<緩衝表現>などはまさに<話されたことば>と<書かれたことば>の違いを鮮明に見せてくれるものである.