『ルネサンス-知と魔術の研究』
澤井茂夫
当該学位論文である『ルネサンス-知と魔術の研究』は、ルネサンス文化論の試みとして、以下の章立てによって、多様で脱領域的な知の有り様と、自然に対する人知の一形態である自然魔術を分析・検討して、その文化的意義を明確にし、ルネサンスの知の有機性を論証するものである。そしてなによりも、当時の知識人の大多数がさまざまな知を探究し修得することに自己の存在理由を見出していた事実、つまり汎知主義が生き方の基本としてあったことを明らかにする。
第I章 生命的基調
1 <心臓を食う話>の視座
2 肉欲の肯定
3 性交の相
第II章 知の形と広がり
1 死に際の機知
2 知の形
3 知のメディア
4 <文法>の位置
5 <有用性>の意義
6 <徳性>の翳り
第III章 魔術の知
1 カランドリーノ説話群
2 預言者カンパネッラ
3 カンパネッラの空間性
4 カンパネッラ的地動説
以上である。
ここでいう<ルネサンス>とは、だいたい14世紀中葉から17世紀前半までの約三百年間を指しており、具体的にはフィレンツェをペストが襲った1348年から、カンパネッラの『ガリレオの弁明』が執筆された1616年までである。
各章のはじめの方の節には必ず説話についての論考が配してある。それは、理念性に事欠く世俗的な俗語作品をまず読み解くことで、当時の人々の生の生活意識に触れ、そこから滲み出て来る知を考察するためである。知が学問分野のみならず、日常生活にも潜在しているものであって、そうした種類の知を掬い上げて見定めることこそ、学識的な知を見通す上での第一歩となると信ずるからである。つまり、一言で括ると、「知と生活」の相互関係(作用)への問いかけと言えよう。
第I章では、ルネサンス文化にきわめて多く見られる生命主義的観点に着目する。それも、フィチーノやビーコといった哲学者が論じた理念的もしくは英雄的人間とは異なる、説話とか博物誌的著書であるG・デッラ・ポルタの『自然魔術』とかに顕在する、真率かつ剛直な生命力、肉欲の肯定を立証する。
「1-<心臓を食う話>の視座」は、トスカナ方言で書かれた初めての説話集である『ノヴェッリーノ』の第六十二話<心臓を食う話>を分析して、中世末期でも、禁欲などのキリスト教の倫理的束縛から離れて闊達に生きていた人たちがいたことを立証する。「2-肉欲の肯定」では、『デカメロン』の中の二つの小話を検討して、作者ボッカッチョが人間の欲望・欲求をいかに肯定し讃えているかが議論される。「3-性交の相」は、G・デッラ・ポルタの『自然魔術』で性交がどういう風に捉えられているかを解明し、デッラ・ポルタの自然愛の深さと自然を思索的に見つめる目の鋭さを提示する。
第II章では、ルネサンスの知の形と広がり、その広範な受容のされ方を論じるとともに、人文主義が社会的・宗教的変化にいかに影響されて、興隆・衰退の道を劇的に歩むかを明らかにする。加えて、先述の「知と生活」の関係を、ルネサンス文化の中にさぐっていく。
「1-死に際の機知」では、ボッカッチョの『デカメロン』一日目第一話を分析して、神がかりでない人知による「機知」の見事さを示して、ルネサンスの知がいかに人間中心的であるかを明証する。「2-知の形」では、カルダーノの『自伝』に見られる知を分析・分類して、それがそのまま当時の知の三つの様態(人文主義的な世俗的知・プラトン主義的な神的知・アリストテレス主義的な経験的知)と重なり合うことを提示し、加えてカルダーノ独特の神や守護霊に対する意識を解き明かす。さらに彼の自然に対する独自の視点にも言及し、近代科学の萌芽を明示する。「3-知のメディア」では、15世紀後半の活版印刷術の誕生を軸に、その前後の書籍(手写本)の流通と価値、それにギリシア・ローマの古典の発掘・収集(図書館の成立、書籍商・出版人の活躍)の動向を紹介する。結果として共通語であったラテン語に基づいた普遍的(カトリック)世界が各俗語の普及によって崩壊していき、各俗語固有の新たな文化が芽生えて来ることを論証する。「4-<文法>の位置」では、文法が西洋文化においてどれほど重大な役割を果たし、文法があらゆる自由学芸の源であったことを提示する。ルネサンス期の論客ロレンツォ・ヴァッラの『ラテン語の優雅さ』を例に、人文主義的刷新の普遍的価値が当著によって表明され、同時に古典古代文化の再生への宣言がなされた意義を考察する。そして諸学の根源としての文法が古典古代の復興の中に、その存在理由を見出した時代こそがルネサンス期であったことを示す。「5-<有用性>の意義」では、15世紀をほぼ生きたフィレンツェの人文主義者マッテオ・パルミエーリの『市民生活論』を素材に、日常生活の中に遍在する<有用性>の意義を掘り出すことで技(手仕事)の重要性が是認されている事実を確信し、知技合一の思想がこの時代に出現したことを立証する。「6-<徳性>の翳り」では、徳(力量)と運命の相剋というルネサンスの代表的主題を、マキャヴェッリやグイッチャルディーニの著作を通して紹介し、運命が勝って徳性が後退するにつれて、徳や力量の涵養を主眼とした人文主義が衰退していく事実を証明する。
第III章ではカンパネッラとその著作を詳細に論じて、魔術の知に潜在する意義を分析する。そしてルネサンス期の知識人のほとんどがアニミズムの自然観に立脚していた事実を立証する。
「1-カランドリーノ説話群」は『デカメロン』の中で最も著名なノヴェッラである。そこで描かれている所有者を透明にしてしまうエリトロピアと呼ばれる石は、究極的には人間が孕んでいる欲の隠喩である。それを暗示するボッカッチョの絶妙な修辞を丹念に論証していく。「2-預言者カンパネッラ」では、カンパネッラの代表作とされるユートピア的小品『太陽の都』に見られる終末思想や至福千年思想を分析し、さらに彼の政治的・宗教的立場を明らかにしていく。つまり、彼は、キリスト教の頂点にある教皇が、なによりもすべての世俗君主を従えるべき存在なのだが、武力を持たぬがゆえに、軍事力のあるスペイン王が実質的なまとめ役となって、メシアの代わりとなるべきだと考える。また、彼は太陽を神として讃えており、『太陽の都』が、ヘルメス思想をキリスト教思想の枠組を借りて表現された作品であることを論証する。「3-カンパネッラの空間性」では、『太陽の都』の都市構造に言及しつつ、円を基調とした建築思想を提示することで、彼の宇宙観を考察する。「4-カンパネッラ的地動説」では、地動説を提唱したがゆえにローマ教会から異端の嫌疑をかけられたガリレオを擁護しようとしてカンパネッラが獄中で書き下ろした『ガリレオの弁明』を入念に読み込んで、自然は神の書であると主張する彼が、聖書の真実を自然科学的真理で立証しようとして、自然を数学的法則から捉えるガリレオの前で呻吟苦悩する、その人間的思想の有り様を明示する。当時の代表的知識人が、いかに自然認識の上で宗教的にも客観知の上でも知的に悪戦苦闘していたかが解き明かされる。自然魔術と近代科学の接点に生きたカンパネッラの思想的位置も重ねて明確にする。
以上の論考から、ひとつの結論として、神の永遠の相の許に一定して在る静止的な知ではなくて、ルネサンス期の人たちが、ギリシア・ローマの古典を発掘して読むことによって人格形成を行なっていき、変化のある動的知を体現していくことが明らかとなろう。
たとえば、古代から存在する自由七学芸を有機的につないでひとつの円環としているのが哲学で、この哲学が志向するものが神学とされた。この神学は中世期には生き生きとしていたが、しだいにスコラ的に硬直して、ルネサンス期で批判されてそこからの脱皮がルネサンスの知の、強いて言えば文化のひとつの大きな原動力となった。
こうした形態上の変化と同時に、性質の方はどうかというと、中世初期の大教父時代の知の特徴は、知を三位一体のうちの<子なる神(キリスト)>と同一視して、異教徒の知や単なる人間・自然の事柄といった世俗知に対立するものとみなし、根本的にキリスト教者の識見として解釈した。一方、15・16世紀のルネサンス期になると、宗教的意味合いは排されて、古典古代への意識的回帰によってキリスト教の啓示から離れることが判って来る。
そして、それに伴って、自然に対する知がより経験的・客観的となり、人間の知と技を介在させて対象(自然)になんらかの効果を与える自然魔術の意義も大きくなる。やがてそれがルネサンス期の自然観の主流を形作っていくことになり、近代自然科学の誕生に大きな貢献を果たすに至る。
本論文を読まれることで、文学でなく哲学・思想でもなく歴史でも宗教でも科学でもないが、文学でもあり哲学・思想でもあり宗教でも科学でもある本論が表出するルネサンス文化の脱領域的な知の百科全書的性格が理解されるであろう。知は有機的に円環し、ルネサンス文化はひとつの有機体であることを立証できたとすれば、幸いである。